以前の記事で最近流行している「マインドフルネス」と集中力の関係について書きました。
マインドフルネスについての記述を見ると、日本の「禅」は何が違うのかが気になってきます。
実際「マインドフルネス=禅」と解釈されているものも散見されます。
禅とマインドフルネスは同じものなのでしょうか?
「禅マインド ビギナーズ・マインド」(鈴木俊隆著 松永太郎訳 サンガ新書 2012)にはアメリカにおいて禅の基礎を築いた鈴木俊隆氏の言葉がまとめられています。
この記事では本書における言葉を引用しつつ、集中と禅の関係について見ていきます。
そもそも禅・座禅とは?
そもそも禅や座禅とは一体どういうものなのでしょうか?
一般的に「禅」は思想体系そのものであり、坐禅は座って行う修行の一種であるというとらえ方ができるでしょう。
そのような解釈でとどめておくこともできますが、実際本書で語られている「禅」や「座禅」の説明はそれ自体が禅問答のように難解です。いくつかを引用します。
禅の修行とは、禅と一つになることです。そのとき、あなたもありません。坐禅もありません。合掌礼拝するときには、ブッダもありません。あなたもありません。そのとき一つの完全な合掌礼拝が起こるのです。それがすべてです。それが涅槃<ニルヴァーナ>です
私たちは同じ基本的な修行を行いますが、あるものは悟りを得、あるものは得ないのです。ということは、私たちは悟りの経験を得なくても、修行に対して正しい理解と姿勢で臨み、適切な方法で行えば、それは禅である、ということです。
「禅マインド ビギナーズ・マインド」(鈴木俊隆著 松永太郎訳 サンガ新書 2012)より引用
こうしてみると禅は「状態」であるようにも「行い」そのものであるようにも見えます。
納得できる解釈を与えることができないのはもどかしいですが、ここでは説明を簡略化するために禅は「思想」、坐禅は「行動」という解釈で進めます。
禅と集中の関係は?
では座禅をすると集中力を手に入れることができるのでしょうか?
結果として集中力の高い人と思われるようにはなるかもしれませんが、「集中力を手に入れるために」座禅を組むということ自体が禅の思想そのものからは外れていると言えます。
禅においてはご利益や目的意識は存在しません。
禅では坐禅など修行に活動を制限します。活動のみに専念することにより自分の本性(ひいては仏性)が現れるとされています。
禅において集中状態というのは、目の前の修行にひたすら取り組むことによって生じる一種の「現象」ともいえるでしょう。
集中力を高めるため、その先にある成果を出すためといった目的意識はそこには存在しません。
禅とマインドフルネス
一般的なマインドフルネスでは、そこから得られるメリットも言及されています。
ではマインドフルネスは功利的でよくない考え方なのでしょうか?
マインドフルネスの考え方の根本をなす「今ここ」に意識を集中させる、判断を与えずに世界を見るということは禅にも共通しています。
実際本書でもマインドフルネスという言葉が登場します。
あれこれと分けられた思考は、本当の思考ではありません。心に集中がなければなりません。それがマインドフルネスです。対象があってもなくても、心が常に安定していて、分割されていないことです。それが坐禅です。
マインドフルネスとは、言い換えれば、智慧ということです。智慧というのは、ある特定の能力のことでも、哲学のことでもありません。それは、心がなにごとも受け入れて、観察できるように待機していることです。
「禅マインド ビギナーズ・マインド」(鈴木俊隆著 松永太郎訳 サンガ新書 2012)より引用
ただ現在流行しているマインドフルネスでは、そのような状態を手に入れた後で例えばビジネスにおいて成果を出すなど、目的を伴った行為があることが前提になっている点が異なると言えます。
禅では、ただ見る、心のすべてで見るということ自体が修行にあたり、それ自体が目的になっていると言えます。
禅と現在流行している瞑想や、マインドフルネスは極めて似ているように映るものの、根本の思想においては異なっていると言えるでしょう。
こうした違いについては妙心寺退蔵院副住職の松山大耕氏が分かりやすく解説しています(参考:マインドフルネスと禅、その決定的な違いは何か? 同じ瞑想に見えても全然別物)。
まとめ
この記事では禅とは何か、禅と集中力の関係や、禅とマインドフルネスの違いについて紹介しました。
禅とマインドフルネスでは最終的な目指すベクトルが異なります。
だからといって、禅は正しい、マインドフルネスは正しくないという話では決してないとは思います。
むしろ今話題のマインドフルネスは難しい禅の概念をわかりやすく取り入れやすいものに捨象しているために人々に受け入れられているのだと思います。
違いを理解した上で自分の生き方を捉え直すきっかけにすることが個人的には重要なのではないかと思います。
もちろん私の能力的にもスペース的にも、深遠な禅の世界の全てを説明することはできません。
もっと深く知りたい方はぜひ書籍などでその思想に触れてみてください。